昭和59年07月23日 月次祭
小倉の初代、桂松平先生の御信心によって、九州に一度信心が伝えられました、その桂先生が願いの一眼として、仰がれ頂いておられた、二代金光様、四神金光様の御神命を頂かれて、九州の地においでられた。九州の信奉者の全てが、二代金光様、四神様を特別に九州の守り神様と言う様にまぁ頂いております。朔日が月の初めの祈願祭。10日は金光大神祭り。18日は四神様のお祭り。
合楽では23日いわゆる天地の祖神様のお祭り。と言う様にまぁ名目の変わったお祭りが九州にそれぞれ伝えられて参りましたが。合楽ではそれをただ月に4回のお祭り、月例祭としてわざわざ今日は何なん様のお祭りというふうには申しませずに、ずっと参りましたが。最近聞かして頂いたお話に本部でもそれを無くされたと言う事でございます。だからそれが本当の様に思うですね。
けれどもやはり九州のものは桂先生を大恩人と思われ。桂先生を四神様を大恩人と思うです、そのお弟子の一人一人がそれぞれの御信心性格を現して各地にごひれいを立てられた。例えば福岡の初代吉木栄三先生は、馬鹿と阿呆で道を開け、という四神様の御教えを信心の芯ともなさっておいでられる内にいよいよ大きな信心だなぁと。どんな場合であっても馬鹿と阿呆で受けて行くと言う。いわゆる心の中にいよいよ和の心。
是は昨日壮年大会の時の私しの話でございましたが。和と言うのは教祖金光大の神御教えの根本的理念と言っても良いのでございますから。このいよいよお互いの心の中に和の心がほんとに確かなものに育って行く事、その和の心をもって信心を進めて行くと言う昨日のお話でございました。久留米の初代は信心辛抱さえしとけば、物事整わん事ない、そう言う先覚先輩の信心を受けられて。
更にそれを信心辛抱によって、受け抜かれて是は私しの想像ですけれども、恐らく久留米の初代のご晩年の頃は信棒と言う言葉がなくなられる程しにおかげを受けておられたのではなかろうか。と言うのは辛抱しておる内にあれもおかげであった。これもお礼を申し上げならん事であったと言う様に、気付かれておいでになる内に、辛抱すると言う事、むしろその事をお礼を申し上げる事だとして。
頂かれたのが、久留米の辛抱ではなかろうかと思います。私共の師匠であります、三井教会の初代、そして二代の御信心の中にも、もうそういう信心が感じられます。そうこうして私共の、私しの信心がだんだん勧められて行く内に、いろいろ体験せればする程、私しの身辺に起きて来る事柄とか問題と言うものが、ただ運命的に起きて来る難儀、例えば難儀と思うておった難儀も、天地の親神様の氏子可愛い、又はほうちょうを取り立ててやらずにはおかんという。
働きであった事に気付かして頂く様になって、その働き即ち御成行と言うものが。合楽ではいよいよ成り行きを大切に尊ばれる信心のまぁ流儀と言うでしょうか。まぁ合楽的な信心が生まれて参りました。その成り行きを尊ぶ大切にすると言う事がね。神愛と解るね。例えば痛い思いをするでも、それは神様氏子可愛いのその一念がそう言う働きになって現れて来るんだと言う事が。もう重ねて上にも重ねて体験して行くうちに分ってくる。ですから有り難いなぁ。
この修行をさして頂く事によってまた新たなおかげが、またはお徳が受けられると言った様な勇んだ心も、生まれて来る様なおかげを頂いておるのが。今合楽の御信心だと思う。例えば100斤のものをやっと持てる人持てない人、200斤のものでも平気にもてれる人。その人の力による事でございます。只一般に難儀な事だとという事柄でも、その人には難儀かもしれませんけど。
力を頂いておる人がそれを頂く時に、その事にお礼の心が頂ける様な、いうなら100斤のもの平気て持てれる様な力を受けている。私は小倉の初代、そして次々と九州に道が開けて参りまして。それぞれの土地でそれぞれのごひれいを立てられた先生方の御信心を思うて見る時に。そうした言うなら力を積み重ねられて今日の各教会のごひれいがあり、また合楽のごひれいがあると思います。だから力を受けると言う、また力を与えずにはおかんと言うお働きを、私共が感じて行かなきゃなりません。
只今のお祭りの神饌が取次ぎ運ばれて参ります。ちょうど私しの前を果物駕籠が通っております時、バラバラと葡萄が一粒一粒お供えしてあったのでしょうか、まぁあのこぼれ落ちてしまいました。お詫びをさして頂きながらまぁ思うたのでございますけれども。葡萄と言えばなるほどあのまま食べて美味しいものですけれども、あの葡萄を壺の中に入れて水を汲んで、言うなら発酵させる。
いうならぶつぶつぶつ発酵して参ります。その上からしっかり蓋をして置ますと、芳醇なあの葡萄酒が出来ます。ように私共がただおかげを頂くと言う事だけでなくて、それも自分の力、ま言うならば自分のお徳あの世にも持って行かれこの世に残して置けれる。そういうお徳を受ける手立てとして頂いていく、まぁ手立てを合楽では、私しが体得したり悟らせて頂たりした、お話しを皆さんにも聞いて頂く訳でございます。
昨日朝テレビを見せて、皆さんもご覧にあった方があるかも知れませんが。或る大学の先生がお話をしておられます。今世界の難儀と言うものは、もう本当に心が寒くなる様な事態が、あちらこちらで起っております。とりわけアフリカ辺りにはもうその餓死ですね。食べ物が無い為に沢山の人がなくなって行かれておる。それを救う手立てと言うものが、ただ食べ物がないから食べ物を与えると言うだけは、まぁそこに魚を食べた事のない人に魚を与える様なものだと。
本当の救いと言うのはそういう慈悲心、又は愛の心を持ってしただけでは本当の救い助かりにはならないのだと。私はそこを聞く時にですね。いやぁこの人は大変の事を知っておられるなと思いました。いわゆるお道で言う神心である。神心に寄らなければ本当の救いにはならない。神心それは魚お与えるのではなくて、魚を取る術を教えるのだと。そこから受けた人は一生魚を食べ続ける事が出来ると言った様なお話でした。
私はその話を頂ながら、あぁ本当にここまでのまぁ言うならてつでに見た考え方を知っておられる。流石に大学の先生だなと思いましたが。それを私共が日々の生活の中に、その魚を取る術を体得して行く。一生どころかあの世にも持って行かれる、お徳を頂くための手立てを合楽では説かれてあるのでございます。ですからとっても皆さんそういうおかげを頂きたいと言う大きな願に立たれて。
日々の例えば修行もそういうおかげの頂けれる、修行であるとして受けて行く様な生き方、そう言う受け方こそいよいよ自分の心の力ともなるものだと思います。その力が100斤しか持てなかったものが200斤も300斤も平気で持てれる様な、心に力を感じれると楽しみとして喜びして、お互いの信心を進めて行かなければならんと思います。そう言う大きな願の元に信心が進められる時に、難もまたみかげであり難あって喜べと仰せられる様な、心の状態も開けて来るのだと思います。
金光様のご信心、合楽に御縁を頂く方達はそう言う力を受けて行く。無形の力それが有形なものに帰られていく、いわゆるおかげに繋がって行く、しかもそれは限りなく魂の助かり。いうなら魂そのものが力を得て行く育って行く。そういう信心とはね、ここには信心の稽古をしに来るところであると仰せられる、そういう一つの眼目を持って信心の稽古をなされていくならば。
自分の信心のいわば教祖の教えが神愛、肉になる事は間違いがないと思います。教祖はもう無尽蔵に限りなく、信心を進めて行けれる手立てを、こまごまとお説きになっておられます。それを私共が、いよいよ広く深く言うなら頂いて行けれるために、私共がほんとに天地の道理に即応した、矛盾のない生き方を身に着けながら、そういう信心を進めて行きたい。今私しは毎日教祖の御教えに取り組まして頂いて、もう寝ても覚めてっもその事ばかりを思わして。
今1時の夏期信行に皆さんに聞いて頂く御理解、あるいは皆さんに聞いて頂く御理解ではない。教祖の御信心がこの様にも深くて広く絶対のものであることを。いよいよ後の時代にもそれが御役に立つような、内容を持った教えでなからなければなれならんと思いますから。取り組ませて頂いておりますが。今日は「食物はみな、人の命のために、天地の神のつくりあたえたものぞ。」ただそれだけのことですから、対した事ないそうですね。と信心者にそれが分って来ると言うだけでしたけれども。
もうこの御理解がいま4回目なんですね。まぁ3回はいろんな角度から説かれてあるのを、改めて聞かせて頂いて、たったそれだけの御教えの中にこんなに広い深い内容があるものが。今日も私しはつくづくその教祖の御教えの深さに感じ入った訳でございますが。食物はみな、食物は天地の神の神の作られたものでよかろうごたるけれども。食物はみなとこう仰せられておる所に大きな意味があるようですねぇ。
あるまぁ宗教ではみなとは言へません。肉は食べちゃいかん。豚は食べてはいけん。牛は食べてはいけない。酒は飲んではいけない。と言った様な生き方がございます。それにこうそう言う例えば、間違った考え方を、この一言の言葉の中でそういう考え方は間違いだぞと。食物はみな、皆んな命のために与えて下さるんだとたったそれだけの言葉に中に、うたっておられるわけです。そのことをあのう思わして。ははぁほんとに食物はみなと言うところに大変、大きな意味だ有るんだなぁと。
優しい簡単な言葉で過去の宗教が言って来た事の間違いを、ぱっとこう指摘しておられる。そう言う激しい内容があるのがあのみなであります。ただ神様から御理解に、神前に供える物を仏前には供えられないと言った様な、思想がいわばあれを飲んではいけない、食べてはいけないと言った様な矛盾した、天地に対する御無礼な考え方になっているだと言う様な御理解を言われました。
頂いてみれば確かにそうである。と言う様に教祖の一言一言のその御教えと言うものが。間違った思想間違った考え方と言った様なものも改めて行きながら。天地自然の働きそのものを神様の御働きとして。また身近に頂くために、それは私のためにある働きであるとして、それを合掌して受けて行く手立て、そこに私しはいよいよ心の力と言うものは付いてくるんだと思います。
その心の力を実証するかのようにね。この人があぁ信心のなかったら時にはほんとに難儀と思うておったことが。いやあの難儀と思うておったあのあれこそ神愛の現れであった、あのおかげで今日の私しの信心があると言った様な風に分かって参りますと。これからとても矢張りそう言う受け止め方が出来る様なね。それこそ千斤万斤のものでもどっこいと受け止められる。
おっ頃の力を養うてくれば生涯かけての事でありますから、そのそうした生涯かけての稽古の出来れる。いわゆる信心をそれぞれ目標と言うか焦点に、日々の信心の稽古に励まして頂かなねばならんと思います。御願いをしておかげを頂く、と言うところから、まぁ始まる訳ですけれども。信心が育てられる働きと言うものは、周辺に一杯あっておるのですから、それを血肉にして行く。
心を育って行く一つの手立てを与えて下さるとして、それを信心の稽古のまぁ元と出来れる。またそうだと真じられる力を、いよいよ養うて行きたいと思います。そこには自分も助か人も助かる。手立てともなれば神様もも喜んで頂く。信心のと言う事にもなります。目指すところは間違いのないところへ、焦点を置いての日々の信心の稽古でありたいと思いますね。
どうぞ。